『悲しみよ こんにちは』 フランソワーズ・サガン

フランソワーズ・サガン著 『悲しみよ こんにちは』 1954年(昭和29年)

e0208346_22481272.jpg新潮文庫の朝吹登水子訳を読む。
過去何度か読みかけて、そのままになっていて、読みかけの気持ち悪さを払拭するために、今回しっかり最後まで読んでみた。

この明るさは何だろう?しばしばキーワード的に登場する、「太陽」、「海」。
南仏のビーチが目に浮かぶようなイメージの中で、十七歳のセシルによる、父親とその新しい恋人との仲を引き裂くための画策が進行していく。秩序と調和と静けさを重視する知的なアンヌ人生観をセシルは受入れられず、友達のような父親とのそれまでの人生を真っ向から否定する存在としてアンヌを怖れる。セシルの策略は功を奏し、結果、アンヌ(父親の新しい恋人)を間接的ながらも死に追いやることになる。

「悲しみよ こんにちは」というタイトルは、”良心の呵責”になど苛まれることのなかった十七歳の私、「太陽と、海と、笑いと、恋」しかなかった青春時代への”さよなら”を意味するのだと思う。
それを、悲しみへの”こんにちは”という形で表現したところに、当時十八歳の早熟なるサガンの凄さ、恐ろしさを感じざるを得なかった。

セシルが、常日頃から冷淡ともいえる冷静さを装うアンヌに対して、初めて生命力溢れる表情を見出したのは、父親の浮気現場を発見した時。結婚の約束までしていた”最後”の恋人による裏切り。苦悩にゆがむアンヌの表情にアンヌは残酷にも生き生きとしたものを感じる。

また、恋人のように付き合っていたシリルについてアンヌは「私は彼をみつめた。私は彼を決して愛したことはなかったのだ。私は彼を善良で、魅力的だと思ったのだ。私は、彼が私に与えた快楽を愛したのだった。けれども、私は彼を必要としない。」と言いのけてしまう。

シビれるほどの残酷さ。

南仏の太陽と海、そして死。

なのに、なぜだか軽やかで明るい。まさに「こんにちは」って感じなのである。

カミュの『異邦人』と比べると強烈なコントラストを感じざるを得ない。

恐るべき小説。
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# by gf777 | 2011-07-17 22:46 | 読書

阿佐ヶ谷スパイダーズ『荒野に立つ』&子供のためのシェイクスピア『冬物語』

久々の演劇ダブルヘッダー。
うだるような暑さの中、三軒茶屋へと向かう。

e0208346_22318100.jpg一本目は、阿佐ヶ谷スパイダーズの『荒野に立つ』。
久々に、観念的過ぎて分からなさ過ぎる芝居を目の当たりにして、新鮮な気分。
訳の分からない感動にラスト近く襲われた。
何とも不可思議・奇妙な世界観。
昨今注目している長塚の芝居ということ、出演者が私的にとても豪華であったこと、阿佐ヶ谷スパイダーズとしての本公演であったこと、等々から期待に胸ふくらませて観劇に臨んだが、観劇後は何とも言えないモヤモヤ感で腹一杯になった。もう一度じっくり見てみたいと思ったが、もしチケットが入手できればもう一度観てみたい。
映画『ノルウェーの森』で、永沢さんの恋人役で出演していた初音映莉子がとても印象深く、是非舞台でその演技を見てみたいと思っていた。女優さんにしばしば感じることだが、実際に見ると、その体の細さにびっくりさせられることが多い。初音映莉子も、思っていた以上にスリムだった。残念ながら彼女の演技についてはそれほどのものを感じなかったが、しばらくは注目し続けていきたい。
今回の公演で驚いたのが、こゆび侍の佐藤みゆきが出演していたこと。彼女のことは、依然、「文学プロジェクト」という太宰の小説4作品を若手4劇団が芝居で演じ採点して順位をつけるという演劇イベントがあったのだが、その時以来注目してきた。可能性を感じさせてくれた若手女優で注目はしてきたが、阿佐ヶ谷スパイダーズの本公演に出演するまでになったとは嬉しい驚き。今後の活躍に期待したい。

e0208346_22313349.jpg二本目は、子供のためのシェイクスピア『冬物語』。
シェイクスピア作品は、しっかり見ていきたいというかねがね思っており、今回の観劇はその一環で。
「子供のため」とあるが、大人も十分に楽しめる芝居だった。
えらくうまい女優さんが一人いるななどと思っていたら、「劇団青い鳥」の伊沢磨紀という女優さんだった。
とても安心して観られたシェイクスピア喜劇。
劇場は、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールという所で、初めて行ったがここは中々いい劇場だった。まだ出来て間もないのではと思うのだが、とてもきれいで座席のすわり心地も良く、高級感あふれる雰囲気の中規模劇場だった。

<『冬物語』のあらすじ> (華のん企画WebSiteより抜粋)
舞台はシチリアの王宮。シチリア王は親友のボヘミア王と自分の妃ハーマイオニの関係を疑い、嫉妬のあまり妃を投獄。その上、生まれたばかりの王女パーディタをボヘミア王の子と思い込み、遠い荒野に捨ててしまいます。子どもを失ったハーマイオニは悲しみのあまり死んでしまいました。家族を失ってやっと自分の間違いに気付いたシチリア王は、後悔の毎日を過ごすこととなります。一方、荒野に捨てられたパーディタは羊飼いに拾われ、16年の歳月の後美しく成長し、あのボヘミア王の息子フロリゼルと恋に落ちたのでした・・・。
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# by gf777 | 2011-07-16 23:37 | 演劇

『ナインティーズ』 橋本治著 その2

橋本治著「ナインティーズ」の続き。

「Part II 89+1」章は、正に読み応え満点。
自民党論から、アイデンティティー論、そしてローマ帝国時代にまで遡っての宗教論まで、縦横無尽といった感じだ。
特に、アイデンティティー論からファシズム論へ、ファシズム論から象徴天皇を頂いた日本の政治体制へという議論の繋げ方はあざやかである。

◆「自民党」の本質◆
1989年の参院選で明らかとなった「農村部の自民党の離れ」が、奇しくも日本の与党、自民党が持っていた性格を炙り出したと筆者は主張。自民党の正体は、「都会の地方人」であると断定し、説得力溢れる議論を展開する。
  • 自民党は農村部にその基盤を置いていた都市型の政党だった。
  • 自民党という政党は、“農村から出てきた都会人”によって成り立っていた日本的な政党。
  • だからこそ、自民党の根本政策は「都会という中央から地方という田舎に利権を運ぶ」という親孝行だった。
  • 中央から“お土産”を持ってくることで農民の利益を守りはしたけれど、農業のことなんか何も考えていなかった。
  • 自民党がもっとも日本的な与党であるというのは、「田舎を引きずっている都会人」というのが最もポピュラーな日本人であるということを踏まえているから。

◆「ふるさと」というイデオロギー◆
  • 自民党が自民党という一つの政治集団であり続けることが出来た裏には、「ふるさと」という隠されたイデオロギーがあった。
  • 「ふるさと」という母屋によってかかっている“離れ”の日本人、それが「結局のところ自民党」という発想を生んだ。

◆「イデオロギー」について◆
  • イデオロギーとは、「自分のあり方を決定するものは自分の中にある意識ではなく、自分のいる社会環境だ」という考え方。
  • つまり、「自分ばかりじゃなく、自分の外側にある“社会”にも目を向けろ、自分のあり方は外側にも影響されるのだから」という、一種の“客観性の提唱”、“現状認識のすすめ”で、このような考え方を前提としてマルクス主義が登場し、「イデオロギー=左翼思想」ということが定着した。
筆者は、マルクス主義は「自分たちは俗な現実を見詰めたんだから正しい!」という形で硬直化してしまったと見る。決まりきった公式見解に従い、自分の頭でものを考えなくても済んでいる便利で怠惰で大ざっぱな思考のモノサシ=イデオロギーであると主張。さらに、イデオロギーはファシズムを可能にする思考放棄の思想である、と続ける。
「ふるさと」という概念によって、妄想の一体感を成り立たせようというのは、正にイデオロギーによる全体主義国家のあり方そのものである。

◆ファシズムについて◆
  • ファシズムとは、基本的に全員平等。
  • 全員平等の中に、例外として“リーダーとしての独裁者=絶対者”がいる。その一人を除けば皆平等。
  • 何故にファシズムという事態が起こるのか?==>誰しもが「平等」という考えには弱いから。
  • 日本以外の国では、この“リーダーたる絶対者”は独裁の権力者なのだが、日本の場合、“絶対者”は常に中立な“象徴”であってなんの権力もない。
  • 日本という国は、慢性的にファシズムと紙一重である。

以上、備忘録的抜粋。
続きは次回に。
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# by gf777 | 2011-07-15 23:25 | 読書

『ナインティーズ』 橋本治著 その1

e0208346_17203716.jpg毎年誕生日が近づくと、「20世紀とは如何なる世紀だったか?」だとか、「日本の戦後は如何なる時代だったか?」だとか、「バブル以降の日本の世相はどうだったか?」だとか、大それた振り返りへの欲求が頭をもたげてくるのでとっても困る。とても読み切れないと分かっているくせに、振り返りのための“参考文献”と称して、何冊も買い込んでしまう。ただ、今年は四十という節目にも当たるため、例年よりもちょっぴり真剣になってみようかなあ、なんて思っている。過去に買いだめした“参考文献”が山ほどあるので、今年はできる限りコストを掛けず、積読状態の書物を消化していくことに集中したい。

今年の「振り返り」企画として、まず手に取ったのが、橋本治氏の「ナインティーズ」という本。橋本治は世相について批判的なエッセーをたくさん書いており、それがまた面白いのなんのって。目うろこ的気づきを与えてくれたこと数知れずで、大好きな作家の一人でもある。とっても読みやすいこの本は、内容盛りだくさんであるため、恐らく数回に渡って、感想めいたことを書いていくと思う。
今回がその第一回目。
「Part I ノンシャラン巷談’90」の章についての備忘禄的抜粋、及びちょっとした感想。

当時のトレンドについての橋本氏の辛口コメントがとても面白い。特にユーミンの人気ぶりについての彼のコメント。
•「この情景に、あなた覚えがあるはずよ』だけでセールスやってたのはすごいよね。みんなユーミンを“自分の存在しなかった青春”として納得しちゃう。ある時期から、日本の青春というものは、“存在しなかった青春”という形でせつなくなっちゃった。『きっとこういうものはホントだったら、“青春”として誰にでもあるはずのものなんだろうけど、自分は遂にそれに巡り会えなかた」って、日本の女の子はみんな“青春”に失恋してるんだな。男に振られたんじゃなくて、輝かしかるべき青春の時期に振られて、そこをユーミンに刺激されて、「分かる・・・」って言うんだ。
•彼女のこと評価する人はさ、商売人としての腕を全部評価してるわけでしょ。「あそこまで自分の内面性を無関係ってことにしてなにかを表現するってこと、俺たちには出来ないよな」っていう。

確かにユーミンほど、「等身大」という言葉からかけ離れた思春期の女の子像を軽やかに、お洒落に歌い上げたシンガーも稀である。ただ、彼女の曲が多くの人を惹き付けた(る)理由には、その“非”等身大的思春期像というものがあるのではないかと思う。特に、都会に憧れている田舎の多感な年ごろの女の子達に。

たばこのCMについての彼のコメント。喫煙者として笑いを禁じ得なかった。
•タバコ吸うっていうのは、自分が抱えてしまった苦悩というものを帳消しにするための、プラスマイナスゼロの作用であるんだから、タバコのCM出すんだったら、苦悩っていうのがなかったら嘘だよね。

『スター・ウォーズ』の日本での興行の失敗についての彼のコメントはとても示唆的。
•映画が来ない前に情報だけ流れ過ぎて、公開時点では飽きちゃってたという、不思議な現象が起こったんだ。「現物と出会うよりも情報を」っていう、勝ちの転倒はこの頃からだと思う。売ろうとして「現象」を作ろうとしてばっかりいるから、映画そのものを観ないで、「現象に付随した映画というオマケ」を観に行くやつらばっかりが増えた。

“新品の世界”についての章より要約・抜粋: 非常に鋭い指摘
•昭和三十年代から後は、結局のところ使い捨てで、そのサイクルがどんどん速くなって来た。なにをやっても使っても、それが「自分のもの」になる以前に「流行」という外側の寿命が終りになるため、いつも中途半端で新しいものを捨てなければならない。それが現代人の生活だった。永遠に新しくなければならない“若さの時代”。
•しかし人間というものは、瀬戸物に茶渋が染み込むように、「ふるび」という形で自分の肌合いをどこかに移したいもの。
•若者の間で「シブい」が登場した段階で、流行はブレーキがかかった。若者が流行かれ降りて、年寄りがバカの一つ覚えのように流行を探すようになり、「トレンディー」という商売が一種のステイタスとなる軽薄な時代が来た。大人が平気で流行を消費する時代に来て、遂に流行は死んだ。
•いつも“新品”の世界にいると落ち着かなくなるということは、当然のことながら、若者の方が先に発見した。そこで「シブい」という停止が来て、今になった。
•流行の行きつく先が結局は「リニューアル」になったりするのは、「まだ使い切ってないものが一杯ある、そこからもう一遍アイデンティティーという体臭を改めて獲得したい」ということなのではないか。
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# by gf777 | 2011-07-13 22:12 | 読書

『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ を読む

e0208346_13511858.jpgミラン・クンデラ著『存在の耐えられない軽さ』が7月9日(土曜)の読書会で取り上げられた。
一週間程前から読み始めてみたものの、小説作品がこんなに小難しい体のものになっているとは思わなかった。クンデラの作品を小説で読んだのは初めて。

『存在の耐えられない軽さ』は高校生の頃に、日本でも映画が上映され、私は一人で観に行った。
まず、『存在の耐えられない軽さ』というタイトルに衝撃を受けた記憶がある。
また、ブラジャー・パンティー姿で山高帽を被ったサビナ役の女優が鏡を前に官能的なポーズをとっているシーンに強烈な印象を受けたことを覚えている。
エロティックで儚げな雰囲気、物悲しさに包まれた「死」を予感させるラストシーンが印象的だった。

小説作品は、小難しい。いきなりニーチェの永劫回帰のようなケッタイな思想の話が出てくるし、ギリシャ神話への言及やデカルトやら、学生の知的好奇心を刺激するキーワードがちりばめられている。
必ずしも各章が時系列で並べられているのわけではなく、ストーリーを頭の中で時系列的に再構成するのに時間もかかる。決して読みやすい本ではなく、一度だけ読んだだけでは十分には理解できない形になっている。
「軽さ」と「重さ」とうキーワードで実存的不安が扱われている。

登場人物達にはそれほどの魅力は感じない。
唯一、サビナが意図的に魅力的に描かれているように思えるが、その「軽さ」故に強烈な印象は残さない。むしろ、最終章の第7部の最終話の第7話において、恋人トマーシュに対して、「ああ神様、彼があたしを愛しているという確信を得るために、はたしてここまで来る必要があったのでしょうか!」と思い至るエリザの〝どん臭さい”「重み」に対して、ようやく魅力を感じることができた。

本作品は、二度三度読み返さないと各章の繋がりも捉えにくく、実存というのっぴきならない重いテーマが扱われており、一筋縄ではいかない。
もし、小説作品から読み始めていたら、映画作品は見なかっただろう。

高校の頃に観た映画作品で感じた強烈な印象は今でも脳裏に焼き付いており、私にとっては若き日の頃の想い出の作品の一つである。
今後も読み返していきたい小説作品となった。
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# by gf777 | 2011-07-09 23:17 | 読書

一人多読会 その3

一人“多読会”を続けている。
長らく積読状態で書棚に積みおかれたの書物たちを“解放”してあげたいという切なる「親心(?)」から、気分的にも乗っていて時間がとれる間にしこたま読んでやれと。
昨日・一昨日とで以下の作品を読んでみた。

◆アラン・シリトー『渦をのがれて』(1988年)
◆バルザック『沙漠の情熱』(1832年)
◆村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』より:
   ◇『タイランド』(1999年)
   ◇『かえるくん、東京を救う』(1999年)
   ◇『蜂蜜パイ』(2000年)
◆サマセット・モーム『環境の力』(1924年)
◆武田泰淳『ひかりごけ』(1954年)
◆大江健三郎『性的人間』(1963年)

大江の『性的人間』が圧倒的に面白かった。
痴漢という性的嗜好にて結ばれた男達の奇妙な絆。
取り返しのつかない痴漢行為へと男たちを駆り立てる心理が生々しく描かれており、読み応えは十分。
“読み応え”的には、『ひかりごけ』がそれに続くだろうか。
これは武田泰淳の有名な作品で、終戦直後実際に北海道で起きた死体損壊事件(食人事件)を題材としている。生き残るがために三人の船員の人肉を喰わざるを得なかった船長。裁判における船長と検事・弁護士とのやりとりにはかなりのリアリティーを感じる。特に、検事に執拗に詰め寄られた船長が検事に対して、『私は検事殿に裁かれても、裁かれたとは思えません。』『私はただ、他人の肉を食べた者か、他人に食べられてしまった者に、裁かれたいと申し上げているだけです。』と答える場面などは圧巻。

モームの『環境の力』もなかなかペーソスあふれる渋い物語だ。
少なくとも先日読んだ短編『手紙』よりも面白い。
主人公ガイは母国大英帝国から植民地マレーに美しい妻を迎え入れ、のんびりとしたコロニアルライフを満喫している。しかし、ある現地人女性が登場により、妻との平穏無事な生活はもろくも崩れる。英国人である妻と結ばれる前に実は彼には現地妻がおり三人の子をもうけていることが判明。多感な若き日々を植民地で過ごさねばならなかった主人公の孤独をよく理解していた気の利く現地人召使によって、うら若き現地人女性あてがわれたのだった。英国人妻に去られた彼のもとにやってきたのは現地人妻との間にできた息子の一人。母からの言いつけで、何か必要ものはないかと聞きに来たのである。主人公はそれまで遠ざけていた現地人妻と子供たちを受け入れる。敗北感に浸りながら。深いため息とともに「負けた」という言葉を吐きながら。「未開」に引きずり込まれていく植民地主義の犠牲者。

シリトーの『渦をのがれて』はやや期待外れ。やはり全盛期の頃の作品を読まなくては。『長距離走者の孤独』とか。またそのうちに。
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# by gf777 | 2011-04-04 18:58 | 読書

一人多読会続行中

一人で“多読会”を続行中。
本日読んだ作品群:
 ◆武田泰淳『流人島にて』
 ◆サマセット・モーム『手紙』
 ◆村上春樹『象工場のハッピーエンド』
 ◆村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』より以下の三編:
   ◇『UFOが釧路に降りる』
   ◇『アイロンのある風景』
   ◇『神の子どもたちはみな踊る』

武田泰淳の『流人島にて』について。登場人物を追っていくのに一苦労。速読には向かないという印象。読みやすさには欠けるが、読み応え十分な秀作。

モームの『手紙』。殺人事件の被告として登場する女主人公レズリー。善良で上品なレズリーの悪魔のような激情が、弁護士ジョイス氏とのやり取りの中で露わになっていく。レズリーが愛人に送った手紙がきっかけとなって。モームの短編小説では最も有名なものとされている作品らしいが、陳腐とまでは言わないものの、面白みを感ずるような驚きはない。ページ数的にも内容的にも移動中に読むにはちょうどいい感じの作品かも。

春樹の『象工場のハッピーエンド』。「マイ・スニーカー・ストーリー」が春樹らしいいい味を出していると感じた。スニーカーの由来に関する本当のような嘘のようなストーリーが軽妙に語られる。実は全て嘘だということが最後で分かるのだが、思わずにんまりしてしまう。

同じく春樹の『神の子どもたちはみな踊る』。二つ目のストーリー『アイロンのある風景』。泣ける。。。本日の一押し。

以上、一人で“多読会”第二回目の報告でした。
  
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# by gf777 | 2011-04-02 01:30 | 日記

ブログ再開

東日本大震災後、約三週間近く経つ。
自分にとっては、地震で初めて『恐怖』を感じた経験であり、日本にとっても未曾有の悲劇となった。
震災後、私が深く考えさせられたことは三つ。
死と不条理と限られた時間。
震災後しばらくの間は、書きたいこと、書くべきことが溢れすぎ、一種のアパシー状態に陥る。

最近、ようやく気持ち的にも落ち着きが出てきたこともあり、ブロクを再開する。

震災の影響で予定していた演劇の公演がいくつかキャンセルとなり、ここ数週間、私のプライベートはもっぱら読書に費やされてきた。
村上春樹の長編小説を、『ねじまき鳥』、『スプートニク』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』と一気に読み(一部再読)、また、新たな個人的試みとして、“一人多読会”を始めた。時間が許す限り、改めて少しでも多くの文芸作品に触れ、味わいたいという強い欲求から始まった新たな試みだ。さすがに長編を次々と読んでいくことは精神的負担が大きいため、もっぱら短・中編の小説作品を対象としている。自宅の本棚に“積読”状態となっている愛すべき書物たちの中から、その時の気分で選んだ本を次々と継続的に読んでいくという試み。大事なことは、毎日読むこと、たとえ10ページ程度でも。
倉橋由美子の『ポポイ』を皮切りに、伊坂幸太郎の『終末のフール』、村上春樹の『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』という感じで読み続けており、昨日からは、ジッドの『未完の告白』及びポール・オースターの『幽霊たち』を読み始めている。
脈絡もなにもない、その時々の気分で作品を選び、作品の世界に浸る。
このような試みを可能とさせている、この今の状況を大変有り難く、幸せに思う。
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# by gf777 | 2011-03-31 09:48 | 日記

久々の日記

仕事の方が忙しさを増し、忙しさの山の一つをようやく越えた感じの今日この頃。
観劇も読書もままならなず、仕事まみれの幾週間かを過ごす。
ブログの更新もかなりの期間さぼってしまった。
そろそろフラストレーションもかなり溜まってきた。
今週末は、どこにも出掛けず、積ん読状態の本を手当たり次第に読むか、一気に映画を3~4本ぐらい見るかして過ごしたい。
忙しさもあるレベルを超えると、短編小説すら読む気が失せてしまう。
とか言いつつも、就寝前の読書(果たして読書と呼べるのかあやしいが。。)は欠かさなかった。睡眠薬としての読書に過ぎないのだが。

悔やまれるのは、6日の読書会に参加できなかったこと。
ホフマンの『黄金の壺』について語り合う会で、楽しみにしていたのだが。。。
風邪を引いてしまい、且つ、翌週からの仕事の準備のために週末も出社せねばならぬ状態で、とても読書会に参加できるような状況ではなかった。残念。。。

観劇もご無沙汰となっている。
芝居が見たくてしょうがない。あぁ~芝居が観たい、観たい、なんて思っていたら、今週日曜に芝居の予定が入っていることについ今しがた気付く。
すっかり忘れていた。
『日本人のへそ』を日曜日に観劇する予定。
今週末は、ゆっくり息抜きしたい。
と、思いきや、21日の精読会に備え、バフチンも完読しておく必要があるし、それまでに『悪霊』も完読しておきたいし。。。
人生、なかなかままならないものだ。
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# by gf777 | 2011-03-09 21:45 | 日記

久方ぶりのブログ更新: ここ数週間の観劇&読書

久々のブログ更新。
2月に入り急激に仕事が忙しくなってきた。
毎年、この時期から忙しくなる。
備忘録としても願わくば三日に一回程度の更新を心掛けたいとは思うのだが。。。
今しばらくは、無理ない程度にしていこうと思う。

ここ数週間の観劇について、まずは手短に。

e0208346_1343213.jpg2月7日(月)に新国立劇場にて『焼肉ドラゴン』を観劇。感動的な芝居。韓国人女優二名(母親役のガタイのいい女優と、三女役の女優)の演技が特に素晴らしかった。特に三女役の女優の関西弁はほぼ完璧で、ひょっとしたら、この人は在日の人なのかと思ってしまったくらい。2008年に日韓両国で大きく取り上げられた鄭義信作・演出の芝居で、今回は再再演。高度成長期の関西の在日韓国人の生き様がたくましく描かれており、見応え満点。五段階評価で四点。

2月12日(土)には久々の観劇ダブルヘッダー。これまでの経験から芝居のダブルヘッダーだけはしまいと一度は誓ったものの、公演日程や個人的な都合からやむを得ず決行。それも前日、読書会メンバーの二十代前半の若者相手に朝5時半まで飲んでしまったこともあり、非常に苦しい「試合」となった。

e0208346_1345621.jpg二日酔い&睡眠不足でグロッキー状態の中、午後に三鷹市芸術文化センターへ向かう。五反田団の『俺のお尻から優しい音楽』を観劇。前々から気になっている前田司郎の作・演出作品。パンフを観ると、前田氏による以下のようなコメントが:
「本公演が始まって10分か15分くらいすると、『まさかこの調子でつづくんじゃあるまいな?』という疑問が皆さんの中に生まれると思います。終始この調子で進みます。」
まさにその通りの芝居だった。二日酔い&睡眠不足の身には優しい内容の芝居だった。何とも言えぬ脱力感に満ちた笑いを強烈に誘う作品。ハチャメチャなストーリーだが、何故か「お腹に優しい」お芝居。前田氏本人も出演しており、彼の演技の醸し出す浮遊感・脱力感には不思議を心地良いものを感じてしまうのであった。五段階評価で四点。

さて、三鷹市芸術文化センターでの観劇を終えた私はその足で池袋へと向かうべく、小雨が降り続ける中、JR三鷹駅に向かったのであるが(三鷹市芸術文化センターは駅から結構遠い徒歩15~20分程度はかかる)、よせばいいのに、途中見つけた古本屋に立ち寄る。読書会に参加していることもあり、読むべき本・読みたい本は死ぬ程あるのにも関わらず、どうしても古本屋を見つけてしまうと、強烈に覗いてみたくなってしまい、何冊か買ってしまうのだ。自宅にまだ読まれぬまま積み置かれた書物は数知れず。誘惑にまけて、三冊買ってしまう。ガルシア・マルケスの短編集と構造主義関連の論文チックな書籍とアラン・シリトーの作品の単行本。一体、いつ頃読めるのだろうか。。。
古本屋を後にし、池袋の東京芸術劇場へと向かう。

e0208346_1353527.jpg自分自身かなり期待していたNODA・MAPの『南へ』を観劇するのだ。
午後7時の開演だが、池袋に到着した頃には、もう私の疲労はピークに来ていた。
6時頃到着したため、劇場近くのマックで時間をつぶす。
眠気覚ましにコーヒーを飲みつつ、文庫本を読みつつ時間をつぶすが、ふと爆睡しかかっている自分に気付く。さすがにアラフォーにとって、二日酔い&睡眠不足のダブルパンチはかなり身にこたえるものだった。何とか開演15分前頃に劇場に到着するも、座席について5分足らずで、強烈な睡魔が。。。目薬片手に、太ももをつねりつつ、必死の抵抗を試みるも、自分自身で自覚しているだけども公演中3回は「落ちた」ように記憶している。「俺はこの観劇のために1万円近くも払っている!意地でも観通してやる!」と意気込むものの、強烈な睡魔の容赦ない誘いには屈せざるをえなかった。悔しさと屈辱に満ち溢れる観劇となってしまった。が、観るべきシーンは一応全て観ことができた、と勝手に思っている。野田秀樹は相変わらずの健在ぶり。あの独特な甲高い声で舞台上を飛びまわっていた。本当にこの人は元気だ。野田さんならではという感じの「動き」のある演出。差別発言すれすれの台詞もあったりして、気が抜けない面白さ、躍動感に満ちた舞台だった。天皇制という重くなりがちなテーマを、茶化しつつも、正面から取り上げてみようという姿勢・意気込みが感じられ、私的にはかなり好感を持てた。途中、少なくとも三度は「落ちた」ものの、五段階評価で五点。

以上、観劇についてだが、ついでにここ数週間の読書についても手短に。

e0208346_1374093.jpg昨年から参加している芸術系サークルの精読会で、バフチンの『ドストエフスキーの詩学』が取り上げられている。先日参加した精読会では、本作品の第一章から第三章について話し合った。さすがに論文だけあって、さっと一読しただけはよくは理解できない内容となっている。超難解とまでは言わないが、決して易しい内容の本ではない。真のポリフォニーこそ、ドストエフスキーの小説の本質的特徴だと言い切るバフチンの主張にはかなりの説得力を感じた。特に第一章では、ドスト作品を論じた他の批評家たちの評価を、気持ちいいぐらい、バッサバッサと切り捨てるようにダメ出しをしていく。彼の主張する「ポリフォニー小説」の定義は、一見飲み込み易すそうで、なかなか腹落ちしてこないのだが、第二章に書かれている、トルストイの小品との比較を読むと、なるほどな~と思わせられる。ただ、ドストエフスキーこそポリフォニーを小説作品で実現させた唯一無二の画期的偉業を成し遂げた作家である、ドストエフスキーこそ素晴らしい作家だ、という感じに聞こえてしまい、果たしてそうなのだろうかと、やや懐疑的になってしまう。もちろん彼の主張にはとても説得力があり、私自身には反論できるだけの深い知識はないが。
3月半ばに予定されている次回精読会では、本作品の残りの章をカバーする予定となっており、カーニバル論なども登場してくる。ポリフォニー論ももちろん興味深いが、私は、カーニバル論の方により興味がある。いずれにせよ、次回精読会が楽しみである。次回までには第一章~第三章も再度改めて読み込んだ上で精読会に臨みたい。

今週から『白痴』を読み始めている。『白痴』を読むのが今回が初めてとなる。学生時代にも『白痴』読んでいなかった。この作品、めちゃめちゃに面白い。岩波文庫のものを読み始め、今のところ上巻の200ページ辺りまで来ているが、この作品は本当に面白い。
本作品、もっと早いタイミングで読み終えている予定だったが、諸々の事情で読み始めるのが遅れ、今週月曜から読み始めた。自分的には、この面白さは『カラマーゾフ』を超えるかもなどとワクワクしながら読んでいる。今週一杯で完読し、ちょいと小休止で他の作家の作品なども1~2冊読んだ後に、『悪霊』の再読(学生時代一度読んでいる)を始めたい。
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# by gf777 | 2011-02-17 01:38 | 日記


読んだ本、見た映画・芝居などについて、思ったこと・感じたこと・考えたこと等を自由気儘に書き連らねています


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