『悲しみよ こんにちは』 フランソワーズ・サガン
フランソワーズ・サガン著 『悲しみよ こんにちは』 1954年(昭和29年)
新潮文庫の朝吹登水子訳を読む。
過去何度か読みかけて、そのままになっていて、読みかけの気持ち悪さを払拭するために、今回しっかり最後まで読んでみた。
この明るさは何だろう?しばしばキーワード的に登場する、「太陽」、「海」。
南仏のビーチが目に浮かぶようなイメージの中で、十七歳のセシルによる、父親とその新しい恋人との仲を引き裂くための画策が進行していく。秩序と調和と静けさを重視する知的なアンヌ人生観をセシルは受入れられず、友達のような父親とのそれまでの人生を真っ向から否定する存在としてアンヌを怖れる。セシルの策略は功を奏し、結果、アンヌ(父親の新しい恋人)を間接的ながらも死に追いやることになる。
「悲しみよ こんにちは」というタイトルは、”良心の呵責”になど苛まれることのなかった十七歳の私、「太陽と、海と、笑いと、恋」しかなかった青春時代への”さよなら”を意味するのだと思う。
それを、悲しみへの”こんにちは”という形で表現したところに、当時十八歳の早熟なるサガンの凄さ、恐ろしさを感じざるを得なかった。
セシルが、常日頃から冷淡ともいえる冷静さを装うアンヌに対して、初めて生命力溢れる表情を見出したのは、父親の浮気現場を発見した時。結婚の約束までしていた”最後”の恋人による裏切り。苦悩にゆがむアンヌの表情にアンヌは残酷にも生き生きとしたものを感じる。
また、恋人のように付き合っていたシリルについてアンヌは「私は彼をみつめた。私は彼を決して愛したことはなかったのだ。私は彼を善良で、魅力的だと思ったのだ。私は、彼が私に与えた快楽を愛したのだった。けれども、私は彼を必要としない。」と言いのけてしまう。
シビれるほどの残酷さ。
南仏の太陽と海、そして死。
なのに、なぜだか軽やかで明るい。まさに「こんにちは」って感じなのである。
カミュの『異邦人』と比べると強烈なコントラストを感じざるを得ない。
恐るべき小説。
新潮文庫の朝吹登水子訳を読む。
過去何度か読みかけて、そのままになっていて、読みかけの気持ち悪さを払拭するために、今回しっかり最後まで読んでみた。
この明るさは何だろう?しばしばキーワード的に登場する、「太陽」、「海」。
南仏のビーチが目に浮かぶようなイメージの中で、十七歳のセシルによる、父親とその新しい恋人との仲を引き裂くための画策が進行していく。秩序と調和と静けさを重視する知的なアンヌ人生観をセシルは受入れられず、友達のような父親とのそれまでの人生を真っ向から否定する存在としてアンヌを怖れる。セシルの策略は功を奏し、結果、アンヌ(父親の新しい恋人)を間接的ながらも死に追いやることになる。
「悲しみよ こんにちは」というタイトルは、”良心の呵責”になど苛まれることのなかった十七歳の私、「太陽と、海と、笑いと、恋」しかなかった青春時代への”さよなら”を意味するのだと思う。
それを、悲しみへの”こんにちは”という形で表現したところに、当時十八歳の早熟なるサガンの凄さ、恐ろしさを感じざるを得なかった。
セシルが、常日頃から冷淡ともいえる冷静さを装うアンヌに対して、初めて生命力溢れる表情を見出したのは、父親の浮気現場を発見した時。結婚の約束までしていた”最後”の恋人による裏切り。苦悩にゆがむアンヌの表情にアンヌは残酷にも生き生きとしたものを感じる。
また、恋人のように付き合っていたシリルについてアンヌは「私は彼をみつめた。私は彼を決して愛したことはなかったのだ。私は彼を善良で、魅力的だと思ったのだ。私は、彼が私に与えた快楽を愛したのだった。けれども、私は彼を必要としない。」と言いのけてしまう。
シビれるほどの残酷さ。
南仏の太陽と海、そして死。
なのに、なぜだか軽やかで明るい。まさに「こんにちは」って感じなのである。
カミュの『異邦人』と比べると強烈なコントラストを感じざるを得ない。
恐るべき小説。
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by gf777
| 2011-07-17 22:46
| 読書
阿佐ヶ谷スパイダーズ『荒野に立つ』&子供のためのシェイクスピア『冬物語』
久々の演劇ダブルヘッダー。
うだるような暑さの中、三軒茶屋へと向かう。
一本目は、阿佐ヶ谷スパイダーズの『荒野に立つ』。
久々に、観念的過ぎて分からなさ過ぎる芝居を目の当たりにして、新鮮な気分。
訳の分からない感動にラスト近く襲われた。
何とも不可思議・奇妙な世界観。
昨今注目している長塚の芝居ということ、出演者が私的にとても豪華であったこと、阿佐ヶ谷スパイダーズとしての本公演であったこと、等々から期待に胸ふくらませて観劇に臨んだが、観劇後は何とも言えないモヤモヤ感で腹一杯になった。もう一度じっくり見てみたいと思ったが、もしチケットが入手できればもう一度観てみたい。
映画『ノルウェーの森』で、永沢さんの恋人役で出演していた初音映莉子がとても印象深く、是非舞台でその演技を見てみたいと思っていた。女優さんにしばしば感じることだが、実際に見ると、その体の細さにびっくりさせられることが多い。初音映莉子も、思っていた以上にスリムだった。残念ながら彼女の演技についてはそれほどのものを感じなかったが、しばらくは注目し続けていきたい。
今回の公演で驚いたのが、こゆび侍の佐藤みゆきが出演していたこと。彼女のことは、依然、「文学プロジェクト」という太宰の小説4作品を若手4劇団が芝居で演じ採点して順位をつけるという演劇イベントがあったのだが、その時以来注目してきた。可能性を感じさせてくれた若手女優で注目はしてきたが、阿佐ヶ谷スパイダーズの本公演に出演するまでになったとは嬉しい驚き。今後の活躍に期待したい。
二本目は、子供のためのシェイクスピア『冬物語』。
シェイクスピア作品は、しっかり見ていきたいというかねがね思っており、今回の観劇はその一環で。
「子供のため」とあるが、大人も十分に楽しめる芝居だった。
えらくうまい女優さんが一人いるななどと思っていたら、「劇団青い鳥」の伊沢磨紀という女優さんだった。
とても安心して観られたシェイクスピア喜劇。
劇場は、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールという所で、初めて行ったがここは中々いい劇場だった。まだ出来て間もないのではと思うのだが、とてもきれいで座席のすわり心地も良く、高級感あふれる雰囲気の中規模劇場だった。
<『冬物語』のあらすじ> (華のん企画WebSiteより抜粋)
舞台はシチリアの王宮。シチリア王は親友のボヘミア王と自分の妃ハーマイオニの関係を疑い、嫉妬のあまり妃を投獄。その上、生まれたばかりの王女パーディタをボヘミア王の子と思い込み、遠い荒野に捨ててしまいます。子どもを失ったハーマイオニは悲しみのあまり死んでしまいました。家族を失ってやっと自分の間違いに気付いたシチリア王は、後悔の毎日を過ごすこととなります。一方、荒野に捨てられたパーディタは羊飼いに拾われ、16年の歳月の後美しく成長し、あのボヘミア王の息子フロリゼルと恋に落ちたのでした・・・。
うだるような暑さの中、三軒茶屋へと向かう。
一本目は、阿佐ヶ谷スパイダーズの『荒野に立つ』。
久々に、観念的過ぎて分からなさ過ぎる芝居を目の当たりにして、新鮮な気分。
訳の分からない感動にラスト近く襲われた。
何とも不可思議・奇妙な世界観。
昨今注目している長塚の芝居ということ、出演者が私的にとても豪華であったこと、阿佐ヶ谷スパイダーズとしての本公演であったこと、等々から期待に胸ふくらませて観劇に臨んだが、観劇後は何とも言えないモヤモヤ感で腹一杯になった。もう一度じっくり見てみたいと思ったが、もしチケットが入手できればもう一度観てみたい。
映画『ノルウェーの森』で、永沢さんの恋人役で出演していた初音映莉子がとても印象深く、是非舞台でその演技を見てみたいと思っていた。女優さんにしばしば感じることだが、実際に見ると、その体の細さにびっくりさせられることが多い。初音映莉子も、思っていた以上にスリムだった。残念ながら彼女の演技についてはそれほどのものを感じなかったが、しばらくは注目し続けていきたい。
今回の公演で驚いたのが、こゆび侍の佐藤みゆきが出演していたこと。彼女のことは、依然、「文学プロジェクト」という太宰の小説4作品を若手4劇団が芝居で演じ採点して順位をつけるという演劇イベントがあったのだが、その時以来注目してきた。可能性を感じさせてくれた若手女優で注目はしてきたが、阿佐ヶ谷スパイダーズの本公演に出演するまでになったとは嬉しい驚き。今後の活躍に期待したい。
二本目は、子供のためのシェイクスピア『冬物語』。
シェイクスピア作品は、しっかり見ていきたいというかねがね思っており、今回の観劇はその一環で。
「子供のため」とあるが、大人も十分に楽しめる芝居だった。
えらくうまい女優さんが一人いるななどと思っていたら、「劇団青い鳥」の伊沢磨紀という女優さんだった。
とても安心して観られたシェイクスピア喜劇。
劇場は、渋谷区文化総合センター大和田さくらホールという所で、初めて行ったがここは中々いい劇場だった。まだ出来て間もないのではと思うのだが、とてもきれいで座席のすわり心地も良く、高級感あふれる雰囲気の中規模劇場だった。
<『冬物語』のあらすじ> (華のん企画WebSiteより抜粋)
舞台はシチリアの王宮。シチリア王は親友のボヘミア王と自分の妃ハーマイオニの関係を疑い、嫉妬のあまり妃を投獄。その上、生まれたばかりの王女パーディタをボヘミア王の子と思い込み、遠い荒野に捨ててしまいます。子どもを失ったハーマイオニは悲しみのあまり死んでしまいました。家族を失ってやっと自分の間違いに気付いたシチリア王は、後悔の毎日を過ごすこととなります。一方、荒野に捨てられたパーディタは羊飼いに拾われ、16年の歳月の後美しく成長し、あのボヘミア王の息子フロリゼルと恋に落ちたのでした・・・。
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by gf777
| 2011-07-16 23:37
| 演劇
『ナインティーズ』 橋本治著 その2
橋本治著「ナインティーズ」の続き。
「Part II 89+1」章は、正に読み応え満点。
自民党論から、アイデンティティー論、そしてローマ帝国時代にまで遡っての宗教論まで、縦横無尽といった感じだ。
特に、アイデンティティー論からファシズム論へ、ファシズム論から象徴天皇を頂いた日本の政治体制へという議論の繋げ方はあざやかである。
◆「自民党」の本質◆
1989年の参院選で明らかとなった「農村部の自民党の離れ」が、奇しくも日本の与党、自民党が持っていた性格を炙り出したと筆者は主張。自民党の正体は、「都会の地方人」であると断定し、説得力溢れる議論を展開する。
• 自民党は農村部にその基盤を置いていた都市型の政党だった。
• 自民党という政党は、“農村から出てきた都会人”によって成り立っていた日本的な政党。
• だからこそ、自民党の根本政策は「都会という中央から地方という田舎に利権を運ぶ」という親孝行だった。
• 中央から“お土産”を持ってくることで農民の利益を守りはしたけれど、農業のことなんか何も考えていなかった。
• 自民党がもっとも日本的な与党であるというのは、「田舎を引きずっている都会人」というのが最もポピュラーな日本人であるということを踏まえているから。
◆「ふるさと」というイデオロギー◆
• 自民党が自民党という一つの政治集団であり続けることが出来た裏には、「ふるさと」という隠されたイデオロギーがあった。
• 「ふるさと」という母屋によってかかっている“離れ”の日本人、それが「結局のところ自民党」という発想を生んだ。
◆「イデオロギー」について◆
• イデオロギーとは、「自分のあり方を決定するものは自分の中にある意識ではなく、自分のいる社会環境だ」という考え方。
• つまり、「自分ばかりじゃなく、自分の外側にある“社会”にも目を向けろ、自分のあり方は外側にも影響されるのだから」という、一種の“客観性の提唱”、“現状認識のすすめ”で、このような考え方を前提としてマルクス主義が登場し、「イデオロギー=左翼思想」ということが定着した。
筆者は、マルクス主義は「自分たちは俗な現実を見詰めたんだから正しい!」という形で硬直化してしまったと見る。決まりきった公式見解に従い、自分の頭でものを考えなくても済んでいる便利で怠惰で大ざっぱな思考のモノサシ=イデオロギーであると主張。さらに、イデオロギーはファシズムを可能にする思考放棄の思想である、と続ける。
「ふるさと」という概念によって、妄想の一体感を成り立たせようというのは、正にイデオロギーによる全体主義国家のあり方そのものである。
◆ファシズムについて◆
• ファシズムとは、基本的に全員平等。
• 全員平等の中に、例外として“リーダーとしての独裁者=絶対者”がいる。その一人を除けば皆平等。
• 何故にファシズムという事態が起こるのか?==>誰しもが「平等」という考えには弱いから。
• 日本以外の国では、この“リーダーたる絶対者”は独裁の権力者なのだが、日本の場合、“絶対者”は常に中立な“象徴”であってなんの権力もない。
• 日本という国は、慢性的にファシズムと紙一重である。
以上、備忘録的抜粋。
続きは次回に。
「Part II 89+1」章は、正に読み応え満点。
自民党論から、アイデンティティー論、そしてローマ帝国時代にまで遡っての宗教論まで、縦横無尽といった感じだ。
特に、アイデンティティー論からファシズム論へ、ファシズム論から象徴天皇を頂いた日本の政治体制へという議論の繋げ方はあざやかである。
◆「自民党」の本質◆
1989年の参院選で明らかとなった「農村部の自民党の離れ」が、奇しくも日本の与党、自民党が持っていた性格を炙り出したと筆者は主張。自民党の正体は、「都会の地方人」であると断定し、説得力溢れる議論を展開する。
• 自民党は農村部にその基盤を置いていた都市型の政党だった。
• 自民党という政党は、“農村から出てきた都会人”によって成り立っていた日本的な政党。
• だからこそ、自民党の根本政策は「都会という中央から地方という田舎に利権を運ぶ」という親孝行だった。
• 中央から“お土産”を持ってくることで農民の利益を守りはしたけれど、農業のことなんか何も考えていなかった。
• 自民党がもっとも日本的な与党であるというのは、「田舎を引きずっている都会人」というのが最もポピュラーな日本人であるということを踏まえているから。
◆「ふるさと」というイデオロギー◆
• 自民党が自民党という一つの政治集団であり続けることが出来た裏には、「ふるさと」という隠されたイデオロギーがあった。
• 「ふるさと」という母屋によってかかっている“離れ”の日本人、それが「結局のところ自民党」という発想を生んだ。
◆「イデオロギー」について◆
• イデオロギーとは、「自分のあり方を決定するものは自分の中にある意識ではなく、自分のいる社会環境だ」という考え方。
• つまり、「自分ばかりじゃなく、自分の外側にある“社会”にも目を向けろ、自分のあり方は外側にも影響されるのだから」という、一種の“客観性の提唱”、“現状認識のすすめ”で、このような考え方を前提としてマルクス主義が登場し、「イデオロギー=左翼思想」ということが定着した。
筆者は、マルクス主義は「自分たちは俗な現実を見詰めたんだから正しい!」という形で硬直化してしまったと見る。決まりきった公式見解に従い、自分の頭でものを考えなくても済んでいる便利で怠惰で大ざっぱな思考のモノサシ=イデオロギーであると主張。さらに、イデオロギーはファシズムを可能にする思考放棄の思想である、と続ける。
「ふるさと」という概念によって、妄想の一体感を成り立たせようというのは、正にイデオロギーによる全体主義国家のあり方そのものである。
◆ファシズムについて◆
• ファシズムとは、基本的に全員平等。
• 全員平等の中に、例外として“リーダーとしての独裁者=絶対者”がいる。その一人を除けば皆平等。
• 何故にファシズムという事態が起こるのか?==>誰しもが「平等」という考えには弱いから。
• 日本以外の国では、この“リーダーたる絶対者”は独裁の権力者なのだが、日本の場合、“絶対者”は常に中立な“象徴”であってなんの権力もない。
• 日本という国は、慢性的にファシズムと紙一重である。
以上、備忘録的抜粋。
続きは次回に。
#
by gf777
| 2011-07-15 23:25
| 読書
『ナインティーズ』 橋本治著 その1
毎年誕生日が近づくと、「20世紀とは如何なる世紀だったか?」だとか、「日本の戦後は如何なる時代だったか?」だとか、「バブル以降の日本の世相はどうだったか?」だとか、大それた振り返りへの欲求が頭をもたげてくるのでとっても困る。とても読み切れないと分かっているくせに、振り返りのための“参考文献”と称して、何冊も買い込んでしまう。ただ、今年は四十という節目にも当たるため、例年よりもちょっぴり真剣になってみようかなあ、なんて思っている。過去に買いだめした“参考文献”が山ほどあるので、今年はできる限りコストを掛けず、積読状態の書物を消化していくことに集中したい。
今年の「振り返り」企画として、まず手に取ったのが、橋本治氏の「ナインティーズ」という本。橋本治は世相について批判的なエッセーをたくさん書いており、それがまた面白いのなんのって。目うろこ的気づきを与えてくれたこと数知れずで、大好きな作家の一人でもある。とっても読みやすいこの本は、内容盛りだくさんであるため、恐らく数回に渡って、感想めいたことを書いていくと思う。
今回がその第一回目。
「Part I ノンシャラン巷談’90」の章についての備忘禄的抜粋、及びちょっとした感想。
当時のトレンドについての橋本氏の辛口コメントがとても面白い。特にユーミンの人気ぶりについての彼のコメント。
•「この情景に、あなた覚えがあるはずよ』だけでセールスやってたのはすごいよね。みんなユーミンを“自分の存在しなかった青春”として納得しちゃう。ある時期から、日本の青春というものは、“存在しなかった青春”という形でせつなくなっちゃった。『きっとこういうものはホントだったら、“青春”として誰にでもあるはずのものなんだろうけど、自分は遂にそれに巡り会えなかた」って、日本の女の子はみんな“青春”に失恋してるんだな。男に振られたんじゃなくて、輝かしかるべき青春の時期に振られて、そこをユーミンに刺激されて、「分かる・・・」って言うんだ。
•彼女のこと評価する人はさ、商売人としての腕を全部評価してるわけでしょ。「あそこまで自分の内面性を無関係ってことにしてなにかを表現するってこと、俺たちには出来ないよな」っていう。
確かにユーミンほど、「等身大」という言葉からかけ離れた思春期の女の子像を軽やかに、お洒落に歌い上げたシンガーも稀である。ただ、彼女の曲が多くの人を惹き付けた(る)理由には、その“非”等身大的思春期像というものがあるのではないかと思う。特に、都会に憧れている田舎の多感な年ごろの女の子達に。
たばこのCMについての彼のコメント。喫煙者として笑いを禁じ得なかった。
•タバコ吸うっていうのは、自分が抱えてしまった苦悩というものを帳消しにするための、プラスマイナスゼロの作用であるんだから、タバコのCM出すんだったら、苦悩っていうのがなかったら嘘だよね。
『スター・ウォーズ』の日本での興行の失敗についての彼のコメントはとても示唆的。
•映画が来ない前に情報だけ流れ過ぎて、公開時点では飽きちゃってたという、不思議な現象が起こったんだ。「現物と出会うよりも情報を」っていう、勝ちの転倒はこの頃からだと思う。売ろうとして「現象」を作ろうとしてばっかりいるから、映画そのものを観ないで、「現象に付随した映画というオマケ」を観に行くやつらばっかりが増えた。
“新品の世界”についての章より要約・抜粋: 非常に鋭い指摘
•昭和三十年代から後は、結局のところ使い捨てで、そのサイクルがどんどん速くなって来た。なにをやっても使っても、それが「自分のもの」になる以前に「流行」という外側の寿命が終りになるため、いつも中途半端で新しいものを捨てなければならない。それが現代人の生活だった。永遠に新しくなければならない“若さの時代”。
•しかし人間というものは、瀬戸物に茶渋が染み込むように、「ふるび」という形で自分の肌合いをどこかに移したいもの。
•若者の間で「シブい」が登場した段階で、流行はブレーキがかかった。若者が流行かれ降りて、年寄りがバカの一つ覚えのように流行を探すようになり、「トレンディー」という商売が一種のステイタスとなる軽薄な時代が来た。大人が平気で流行を消費する時代に来て、遂に流行は死んだ。
•いつも“新品”の世界にいると落ち着かなくなるということは、当然のことながら、若者の方が先に発見した。そこで「シブい」という停止が来て、今になった。
•流行の行きつく先が結局は「リニューアル」になったりするのは、「まだ使い切ってないものが一杯ある、そこからもう一遍アイデンティティーという体臭を改めて獲得したい」ということなのではないか。
今年の「振り返り」企画として、まず手に取ったのが、橋本治氏の「ナインティーズ」という本。橋本治は世相について批判的なエッセーをたくさん書いており、それがまた面白いのなんのって。目うろこ的気づきを与えてくれたこと数知れずで、大好きな作家の一人でもある。とっても読みやすいこの本は、内容盛りだくさんであるため、恐らく数回に渡って、感想めいたことを書いていくと思う。
今回がその第一回目。
「Part I ノンシャラン巷談’90」の章についての備忘禄的抜粋、及びちょっとした感想。
当時のトレンドについての橋本氏の辛口コメントがとても面白い。特にユーミンの人気ぶりについての彼のコメント。
•「この情景に、あなた覚えがあるはずよ』だけでセールスやってたのはすごいよね。みんなユーミンを“自分の存在しなかった青春”として納得しちゃう。ある時期から、日本の青春というものは、“存在しなかった青春”という形でせつなくなっちゃった。『きっとこういうものはホントだったら、“青春”として誰にでもあるはずのものなんだろうけど、自分は遂にそれに巡り会えなかた」って、日本の女の子はみんな“青春”に失恋してるんだな。男に振られたんじゃなくて、輝かしかるべき青春の時期に振られて、そこをユーミンに刺激されて、「分かる・・・」って言うんだ。
•彼女のこと評価する人はさ、商売人としての腕を全部評価してるわけでしょ。「あそこまで自分の内面性を無関係ってことにしてなにかを表現するってこと、俺たちには出来ないよな」っていう。
確かにユーミンほど、「等身大」という言葉からかけ離れた思春期の女の子像を軽やかに、お洒落に歌い上げたシンガーも稀である。ただ、彼女の曲が多くの人を惹き付けた(る)理由には、その“非”等身大的思春期像というものがあるのではないかと思う。特に、都会に憧れている田舎の多感な年ごろの女の子達に。
たばこのCMについての彼のコメント。喫煙者として笑いを禁じ得なかった。
•タバコ吸うっていうのは、自分が抱えてしまった苦悩というものを帳消しにするための、プラスマイナスゼロの作用であるんだから、タバコのCM出すんだったら、苦悩っていうのがなかったら嘘だよね。
『スター・ウォーズ』の日本での興行の失敗についての彼のコメントはとても示唆的。
•映画が来ない前に情報だけ流れ過ぎて、公開時点では飽きちゃってたという、不思議な現象が起こったんだ。「現物と出会うよりも情報を」っていう、勝ちの転倒はこの頃からだと思う。売ろうとして「現象」を作ろうとしてばっかりいるから、映画そのものを観ないで、「現象に付随した映画というオマケ」を観に行くやつらばっかりが増えた。
“新品の世界”についての章より要約・抜粋: 非常に鋭い指摘
•昭和三十年代から後は、結局のところ使い捨てで、そのサイクルがどんどん速くなって来た。なにをやっても使っても、それが「自分のもの」になる以前に「流行」という外側の寿命が終りになるため、いつも中途半端で新しいものを捨てなければならない。それが現代人の生活だった。永遠に新しくなければならない“若さの時代”。
•しかし人間というものは、瀬戸物に茶渋が染み込むように、「ふるび」という形で自分の肌合いをどこかに移したいもの。
•若者の間で「シブい」が登場した段階で、流行はブレーキがかかった。若者が流行かれ降りて、年寄りがバカの一つ覚えのように流行を探すようになり、「トレンディー」という商売が一種のステイタスとなる軽薄な時代が来た。大人が平気で流行を消費する時代に来て、遂に流行は死んだ。
•いつも“新品”の世界にいると落ち着かなくなるということは、当然のことながら、若者の方が先に発見した。そこで「シブい」という停止が来て、今になった。
•流行の行きつく先が結局は「リニューアル」になったりするのは、「まだ使い切ってないものが一杯ある、そこからもう一遍アイデンティティーという体臭を改めて獲得したい」ということなのではないか。
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by gf777
| 2011-07-13 22:12
| 読書
『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ を読む
ミラン・クンデラ著『存在の耐えられない軽さ』が7月9日(土曜)の読書会で取り上げられた。
一週間程前から読み始めてみたものの、小説作品がこんなに小難しい体のものになっているとは思わなかった。クンデラの作品を小説で読んだのは初めて。
『存在の耐えられない軽さ』は高校生の頃に、日本でも映画が上映され、私は一人で観に行った。
まず、『存在の耐えられない軽さ』というタイトルに衝撃を受けた記憶がある。
また、ブラジャー・パンティー姿で山高帽を被ったサビナ役の女優が鏡を前に官能的なポーズをとっているシーンに強烈な印象を受けたことを覚えている。
エロティックで儚げな雰囲気、物悲しさに包まれた「死」を予感させるラストシーンが印象的だった。
小説作品は、小難しい。いきなりニーチェの永劫回帰のようなケッタイな思想の話が出てくるし、ギリシャ神話への言及やデカルトやら、学生の知的好奇心を刺激するキーワードがちりばめられている。
必ずしも各章が時系列で並べられているのわけではなく、ストーリーを頭の中で時系列的に再構成するのに時間もかかる。決して読みやすい本ではなく、一度だけ読んだだけでは十分には理解できない形になっている。
「軽さ」と「重さ」とうキーワードで実存的不安が扱われている。
登場人物達にはそれほどの魅力は感じない。
唯一、サビナが意図的に魅力的に描かれているように思えるが、その「軽さ」故に強烈な印象は残さない。むしろ、最終章の第7部の最終話の第7話において、恋人トマーシュに対して、「ああ神様、彼があたしを愛しているという確信を得るために、はたしてここまで来る必要があったのでしょうか!」と思い至るエリザの〝どん臭さい”「重み」に対して、ようやく魅力を感じることができた。
本作品は、二度三度読み返さないと各章の繋がりも捉えにくく、実存というのっぴきならない重いテーマが扱われており、一筋縄ではいかない。
もし、小説作品から読み始めていたら、映画作品は見なかっただろう。
高校の頃に観た映画作品で感じた強烈な印象は今でも脳裏に焼き付いており、私にとっては若き日の頃の想い出の作品の一つである。
今後も読み返していきたい小説作品となった。
一週間程前から読み始めてみたものの、小説作品がこんなに小難しい体のものになっているとは思わなかった。クンデラの作品を小説で読んだのは初めて。
『存在の耐えられない軽さ』は高校生の頃に、日本でも映画が上映され、私は一人で観に行った。
まず、『存在の耐えられない軽さ』というタイトルに衝撃を受けた記憶がある。
また、ブラジャー・パンティー姿で山高帽を被ったサビナ役の女優が鏡を前に官能的なポーズをとっているシーンに強烈な印象を受けたことを覚えている。
エロティックで儚げな雰囲気、物悲しさに包まれた「死」を予感させるラストシーンが印象的だった。
小説作品は、小難しい。いきなりニーチェの永劫回帰のようなケッタイな思想の話が出てくるし、ギリシャ神話への言及やデカルトやら、学生の知的好奇心を刺激するキーワードがちりばめられている。
必ずしも各章が時系列で並べられているのわけではなく、ストーリーを頭の中で時系列的に再構成するのに時間もかかる。決して読みやすい本ではなく、一度だけ読んだだけでは十分には理解できない形になっている。
「軽さ」と「重さ」とうキーワードで実存的不安が扱われている。
登場人物達にはそれほどの魅力は感じない。
唯一、サビナが意図的に魅力的に描かれているように思えるが、その「軽さ」故に強烈な印象は残さない。むしろ、最終章の第7部の最終話の第7話において、恋人トマーシュに対して、「ああ神様、彼があたしを愛しているという確信を得るために、はたしてここまで来る必要があったのでしょうか!」と思い至るエリザの〝どん臭さい”「重み」に対して、ようやく魅力を感じることができた。
本作品は、二度三度読み返さないと各章の繋がりも捉えにくく、実存というのっぴきならない重いテーマが扱われており、一筋縄ではいかない。
もし、小説作品から読み始めていたら、映画作品は見なかっただろう。
高校の頃に観た映画作品で感じた強烈な印象は今でも脳裏に焼き付いており、私にとっては若き日の頃の想い出の作品の一つである。
今後も読み返していきたい小説作品となった。
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by gf777
| 2011-07-09 23:17
| 読書
読んだ本、見た映画・芝居などについて、思ったこと・感じたこと・考えたこと等を自由気儘に書き連らねています
by GF777
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全体演劇
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